ミャンマーについて

1 面積

68万平方キロメートル(日本の約1.8倍)

2 人口

5,141万人(2014年9月(ミャンマー入国管理・人口省発表))

3 首都

ネーピードー

4 民族

ビルマ族(約70%)、その他多くの少数民族

5 言語

ミャンマー語

6 宗教

仏教(90%)、キリスト教、イスラム教等

ピュー族の古代都市群【ミャンマー世界遺産】

歴史

現在のミャンマーがある地域には、ビルマ人と呼ばれる民族が主に居住しているが、ビルマ人
は 8、9 世紀頃からチベット、中国甘粛省の辺りから南下し、10 世紀初めにエヤワディ河の中流の
ピュー人、下流のモン人を追う形で統一国家のパガン朝を建国した。
パガン朝は、先住民であるモン人の影響から上座仏教を信仰し、多くの仏塔(パゴダ)を建造した。首都パガンには現在も多くのパゴダが残っており、ミャンマーを代表とする観光地の一つとなっている。

13 世紀、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国がビルマ地域にも侵攻し、1314 年パガン朝は
滅亡。その後、シャン人、ビルマ人、モン人らの勢力が拮抗した。下ビルマはモン人がペグー朝
を、上ビルマにはシャン人がピンヤ朝やアヴァ朝を建国した。
14 世紀にタウングーを拠点としたビルマ人が強大になり、1531 年タウングー朝が建国された。その後、タウングー朝は下ビルマのペグー朝を滅ぼし、上ビルマも平定、ビルマを統一した。タウングー朝は、現在の東インドのマニプールやタイのアユタヤ朝、雲南省の一部も支配した。
18 世紀、上ビルマのビルマ人のアウランパヤーがビルマ全土を統一し、1752 年にコンバウン朝
を建国した。コンバウン朝はタイのアユタヤ朝を滅ぼす等勢力を拡大した。

カックー遺跡

19 世紀、コンバウン朝はインドへも進出しようとしたが、当時インドを支配していたイギリス
との抗争に発展した。
19 世紀後半、マンダレーに遷都したコンバウン朝は、3 次にわたる英緬戦争においてイギリスに敗れ、1886 年に滅亡。インド帝国の一州としてイギリス領インドに併合された。イギリスによるビルマ統治は、インド総督の配下に属する弁務官によって行われ、1897 年から自治州となった。

1930 年、ビルマでは、反イギリス組織である「我らビルマ人協会(タキン党)」が結成された。
このような動きに対しイギリスは、1935 年にビルマをインドから分離し、直轄植民地としてビル
マ総督を設置したが、その後も、アウン・サンを指導者とするタキン党による反英独立闘争は続
いた。
日本は、膠着状態になっていた日中戦争の戦況を打開すべく、援蒋ルートと呼ばれたビルマルー
トの攪乱を目的として、ビルマ独立闘争の支援を行った。1941 年、アウン・サンとネ・ウィンら
がビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。
太平洋戦争開戦後、フランス領インドシナ南部を抑えていた日本軍は、1942 年、ビルマに侵攻
した。間もなくビルマ全土を制圧した日本は軍政を布き、独立指導者のバモーを首班に親日政府
を樹立した。BIA のアウン・サンは、表面的には日本軍に協力するという体裁を取ったが、秘密
裏に抗日運動も指導した。

バガン遺跡

1943 年、東条内閣は大東亜共栄圏の中でのビルマの独立(ビルマ国)を認めたが、それは主権
のない名目的な独立であった。アウン・サンを総裁とする反ファシスト人民自由連盟によって、
抗日武装闘争が開始された。1945 年、日本の敗戦により、イギリスによる支配が復活すると、再
びイギリスからの独立闘争が展開された。その後、1948 年、イギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦
として独立を果たした。
ビルマ連邦は、議会制民主主義の国家として独立したが、国内はカレン族やシャン族等の少数
民族との対立等が原因となり、安定しなかった。
そこで、BIA を前身とする国軍が国内統一のために政治も関与するようになった。1962 年、軍部クーデターにより、ウー・ヌ首相が退陣し、ネ・ウィン将軍が軍事政権を樹立した。1974 年、ビルマ連邦社会主義共和国として、ビルマ式社会主義を掲げたが、経済社会は混乱した。

ヤンゴン市内

その後、民主化運動が激しさを増す中、1988 年、ネ・ウィン将軍の退陣、ビルマ社会主義計画
党の解散に至ったが、国軍は武力行使により、軍部独裁政権を樹立、ソウ・マウン大将が権力の
座に就いた。翌年、民主化運動の指導者であるアウン・サン・スー・チーを自宅軟禁とした。2007年 9 月には、反政府デモの取材をしていたジャーナリストの永井健司氏が軍により射殺される事件が起きた。2007 年 10 月、テイン・セインが首相に就任すると、軍政の改革が開始された。2010年 11 月、総選挙が実施された。その直後、アウン・サン・スー・チーの自宅軟禁が解除された。
2011 年 3 月、テイン・セインが大統領に就任、2015 年 11 月、民政復帰後では初めての総選挙が
実施され、アウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝した。アウン・サン・
スー・チーは大統領に就任出来なかったものの、ティン・チョウが大統領に就任し、54 年ぶりに
文民大統領が誕生した。同政権は、アウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大
臣を兼任し、事実上のアウン・サン・スー・チー政権であると言える。